上野公園めぐり
上野恩賜公園は、元々、寛永2年(1625)に創建された東叡山寛永寺の寺領であり、今もそこここにその面影を残しています。台東区、寛永寺、上野動物園が共同開催する上野公園めぐりは、毎年秋頃に催される上野の森の歴史と文化を味わえる人気のツアーとなっています。


現在の上野恩賜公園は、江戸幕府開闢の後の寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によって創建された東叡山寛永寺の広大な寺領でした。寛永寺は、徳川秀忠、家光の帰依により、江戸城の鬼門(北東)に位置する上野台地に建立されました。将軍家の祈祷寺・菩提寺として篤い庇護を受けた寛永寺は、壮大な寺領と共に小堀遠州等による名園や清水観音堂を始めとして不忍池辯天堂、旧寛永寺五重塔、開山堂(両大師)、大仏殿等の伽藍が立ち並び、各大名の寄進による三十六坊(現存は十九坊)もの子院が造営されました。その子院のひとつ寒松院は、開基の津(現三重県津市)藩主藤堂高虎の法名が寺名となっています。津藩(藤堂家)の下屋敷は、現在の上野動物園から上野東照宮あたりに造られる予定でした。その敷地を、藤堂高虎は家康を祀る上野東照宮の建立にあたって献上し、また寛永4年(1627)に寒松院を東照宮の別当寺として建立しました。上野動物園内には、現在も藤堂家墓所(非公開)が残されています。
寛永寺の伽藍の多くは、明治元年(1868)の戊辰戦争(上野戦争)の際に多くが焼失してしまいました。その跡地は、明治3年に明治政府の命ににより視察したオランダの軍医ボードワン(ボードウィン)の提案により日本初の公園として蘇りました。ボードワンは上野恩賜公園の生みの親として顕彰され、昭和48年(1973)に上野公園内にボードワン博士像が建立されました。ところが、建立当初の像はボードワンの兄弟の写真を基に作成されたもので、その誤りは永らく分かりませんでした。平成18年(2006)にボードワンの写真を基に、改めて像が建立されました。


戊辰戦争の戦地となった上野公園内には、彰義隊を弔う墓があります。 ルート 6
上野公園めぐりは、江戸時代、明治時代、そして今日の多くの国内外の観光客や美術館見学客で賑わう上野公園までの歴史やその史跡を知り、また学ぶ事ができます。江戸時代の参道下の上野の町の賑わい、不忍池辯天堂や池之端界隈、そして多くの博物館や美術館が建ち並ぶ公園内にも、往時の風景が彷彿として蘇ります。
上野公園めぐり
上野恩賜公園は、元々、寛永2年(1625)に創建された東叡山寛永寺の寺領であり、今もそこここにその面影を残しています。台東区、寛永寺、上野動物園が共同開催する上野公園めぐりは、毎年秋頃に催される上野の森の歴史と文化を味わえる人気のツアーとなっています。
東叡山寛永寺については、「歴史を歩く- 上野の杜を歩く。」をご覧下さい。