横山大観の生涯は、新たな日本画への模索でした。


横山大記念館館前には、台東区の東京百年を記念した横山大観顕彰碑が建っています。(昭和43年(1968)建立)

海外との交流
 
Q:  ローマにはいつ頃行かれたのですか。
 
 昭和5年(1930)です。大々的に開催された日本画の展覧会でした。大倉喜七郎男爵がその資金を出されて、日本画の展覧会をローマで開催する運びになりました。当時、大倉さんは大倉商事とか貿易会社も経営されていた財界人でしたが、イタリアとのコンタクトが無かったようです。それで、ただぶつかっては面白くない、日本の絵画の文化を知らしめて、それでイタリアとの交易をやろうとお考えになったようです。それで日本美術院と日展(旧文展)から、大観と川合玉堂先生が選者となって、作品を選びました。
 
Q: 大観先生はローマに行かれた際には、英語でやりとりされたのでしょうか。
 
 英語で挨拶をしています。この時の原文がありますが、やはり心配だったんでしょうね、天心先生の息子さんの吉三郎さんに校閲してもらっていたようです。 英文の手紙も自ら書いていました。よくスケッチブックに英文の一語を書いてたりしてます。ただ自分が英語を喋れるとか、読めるとかは、友人にも話さないままでした。良い例が、平山郁夫先生がまだ東京藝術大学の助手で、前田青邨先生が教授として、お二人が一緒に大観の元にいらっしゃった時に、『ニューヨーク・タイムズ』とか『ライフ』等の雑誌や『リーダーズ・ダイジェスト』が机の下に置いてあるのを見て、どうして英文のこのような雑誌があるのだろうと不思議に思われたとの事でした。話しているうちに、大観が新聞や雑誌の話をしたので、先生たちはびっくりして、前田先生も大観がまさか英語が出来るとは思わなかったとの事でした。それで学生たちに、明治元年生まれの大観先生が英語が出来るのだから、お前たちは二ヶ国語ぐらいは覚えておけと前田先生がおっしゃったと、後に平山先生からお聞きしました。
 
Q:  大観先生の作品は日本画ですが、暮らしぶりは洋式だったのでしょうか。
 
 まったくないです。背広も一着も持っていませんでした。日本人には着物という素晴らしい衣装があるのだから、それを着て何が悪いと言っていました。ところが、画材については、戦争中でも外国のものを使っていました。鉛筆やスケッチブックでもすべて外国のものでした。当時だったら非国民と言われていますね。ところが、大観はこの外国のものと同じものを日本が作れるのであれば俺は使うと言っていました。
 
Q: けれども、服は常に和服で過ごされていたのですか。
 
 どこへ行くにでも、和服でした。アメリカに天心先生、春草と共に行きました際にも和服でしたし、ローマ展の時も和服でした。ただ大礼服だけは例外でした。九州に招かれた際に、大礼服でとの指定がありました。それで着た事がありました。けれども、大礼式が終わって、すぐに知人の所に駆け込んできて、こんな苦しいものはないと浴衣を借りて帰ってきて、大礼服は置いてきてしまった事がありました。
 一方、外国の方とは多くの付き合いがございました。例えば、インドの詩人のタゴール、英国の詩人のブランデン(エドマンド・ブランデン)とか、フランス大使のクローデル、満州国の愛新覚羅溥傑等とも親交がありました。けれども、食事に誘った場合は、すべて日本食でした。それで日本酒を出す訳です。ワインや洋酒を飲んでいた事はありましたが、ビールは飲んでる事は見た事はありませんね。本人も言ってましたが、若い頃はまったく飲めなかったとの事でした。天心先生から酒を飲まなきゃ弟子にはしないと言われて、天心先生が若い連中を集めて夜を徹して芸術論の話をするのについていけないと、親友の春草と二人で練習したそうです。一合でも飲むと気持ち悪くなり、トイレで喉に指を入れて吐いては、また宴席に行くと、春草が代わりにまたゲーと吐いてまた宴席に戻っていたとの事でした。それで飲めるようになったという事を言ってました。
 天心先生が東京美術学校を追われたとき、あの頃は大観はあまり飲めなかったようですね。ただ文部省に対して、なぜ天心先生に謂れもないことで非職を命ずるんだと自暴自棄になり飲んだ事があったと言っていました。確かにあの時に皆辞職をいたしましたが、懲戒免官になったのは大観、新納忠之助、西郷弧月、そして寺崎廣業の4人でした。その他の人は依頼退職になっています。東京藝術大学の資料を調べましたら、横山秀麿懲戒免官となっていました。大観が一緒に辞めようじゃないかと言った扇動者だったという事が分かります。それだけ天心先生を信頼していましたし、絵が描けるようになったのは天心先生のおかげだと申していました。
 美術評論の河北倫明先生は、よくここにも遊びにいらっしゃっていました。大観は評論家嫌いでしたが、河北先生とはお会いしてね、一緒にお酒飲んだりしていました。そのような時にも天心先生の話が出ると、大観は威儀を正して下手な事は喋らなかったので、いかに天心先生を尊敬していたかが本当に良く分かったと河北先生は仰っていました。
 
Q: 大観先生はインドの方とも交流が深かったようですね。
 
 詩人のタゴールが日本に初めていらしゃった時には、まだこの家が小さな家だった頃にお迎えして、泊まられたという事です。画室を寝室にして一日だけ泊まられたようです。その後はあまりにも狭いので、三渓園に案内したようです。二度目にいらっしゃった時も来訪されました。
 
Q: 大観先生もインドに行かれていたのでしょうか。
 
 天心先生からインド美術と交流してこいと言われて、菱田春草先生と二人でインドに渡り、タゴールの元へ泊まっています。そこでインド美術を知りました。その後にすぐにアメリカに行きましたが、インドには一年程滞在していたかと思います。
 
Q: アメリカに行かれた際は、展覧会を催されたのでしょうか。
 
 天心先生が昵懇(じっこん)だったアメリカのアイナ・サースビー、この方はルーズベルトとも昵懇だったようですが、この方の仲介で大観と春草が展覧会を開催しました。その展示会の中で絵が非常によく売れたようです。たまたまカタログが一枚残っていましたが、購入した方の名前と価格が出ております。日本でもまったくの無名の画家なのに、大観の絵が200ドルとか、春草のものが300ドル等と、高値で売れています。ボストンの金持ちといっても、どうして無名の画家の作品を買うのだろうと思っていましたら、日本に2年程留学されていたアメリカの女子学生Victoria Louise Westonさんが大学院で書き、ミシガン大学で博士号を取った、大観についての論文を読んでその理由が分かりました。その論文中に当時の事を調べた資料があり、資料中にカタログも含まれていました。未知の人でしたら必ずミスターやミセスの敬称を付けるのですが、カタログには全部敬称がありませんでした。敬称がないのは、アイナ・サースビーのよく知った方に、指し値で買わせたようだという事でした。そのような、アイナ・サースビーの仲介もあり、大観はアメリカで絵を高値で売り上げ、2000ドル程を手にしたようです。その内の1000ドルを岡倉先生に差し上げて、それが『茶の本』の原資にもなったようです。
 その足でアメリカからヨーロッパへ菱田春草先生と二人で行き、展覧会を開いたり、絵を描いて帰ってきたようです。帰ってきた後に、絵画について論文発表しています。二人の連名で、我々の絵画は、いわゆる朦朧画と揶揄されたが、けっして洋画に負けてはいないと書いています。
 
Q: 朦朧体に行き着いたのは、洋画の影響でしょうか。
 
 そうだと思います。やはり日本画というのは線描で立体を描いていましたから。天心先生は、空気を描けという命題与えたとの事です。大観や春草は、空気を描くにはどうすれば良いと試行錯誤したのでしょう。色彩のぼかしや色を用いた線で表現したり、あるいはぼかしの手法で遠近を表現したり、日本画ではあまりありませんが、事物に影を付けたりしたのでしょう。このような洋画の長所を取り入れたという事かと思います。けれども、写実ではなくて、花だったら、その花そのものを描くのではなくて、花の香りやその裏側にあるものを表現しようとしたのでしょう。確か、天心先生は大観や春草、観山たちに、お経を与えて、お経を絵にしなさいというような命題を与えているようです。そうすると、お経を勉強しないと絵には出来ません。そのようにして大観や春草の絵画は昇華していったかと思います。
 
Q: 五浦に移られた後は、東京美術学校には戻られなかったのですね。
 
 いわゆる今日の大学院の構想で日本美術院を設立しましたので、東京美術学校には復職しませんでした。東京美術学校を辞した教員等が参画し、また川合玉堂先生等も参加して、日本美術院は新しい芸術を創造しようと模索しました。
 
池之端に落ち着いてから
 
Q: この池之端のこの私邸で後年を過ごされたのでしょうか。ここで過ごされた時期の家族構成はいかがでしょう。
 
 そうでございます。明治41年(1908)に五浦の家が全焼しましたので、池之端七軒町に仮寓しました。翌年42年(1909)に、ここ池之端茅町に家を新築しました。大正八年(1919)には改築していますが、昭和20年(1945)の空襲により全焼しましたので、現在の建物は、昭和29年(1954)に再建しています。
 この土地は、元は当時のジャーナリストだった福地桜痴先生(源一郎)が住んでおられましたが、大変な金持ちでしたが、遊びすぎてしまって手放したとの事です。それで、三菱商会の大番頭、いわゆる支配人業務を務められていた浅田正文さんがこの土地を購入されたようです。大観は、最初は300坪程を譲ってもらって家を建てましたが、後に120坪程買い増しました。[右段に続く]

Q: 横山館長も、最初の家には行き来されていたのですか。
 
 いや、その頃は大正時代ですから生まれてませんし、私どもは西片町に居りました。この家は大観夫妻だけでした。明治の頃は大観の両親の家が、本郷近くの森川町にあったようでした。一時期は、一緒に住んだこともあったようでございますけどね。
 
Q: この大きな家でご夫妻だけで過ごされていたのですか。お弟子さんも住まわれていたのでしょうか。
 
 大観は、私はまだ完成してませんと言って、終生弟子を持ちませんでした。玄関子(玄関番)として男の方が居りましたが、堅山南風先生のお弟子さんでした。
 
Q: 堅山南風先生は、大観先生のお弟子ではないのですか。
 
 堅山南風先生は、大観を師と仰いでくださっていましたが、その要因となったのは、大正2(1913)年に開催された文展で、堅山先生が『霜月頃』という作品で2等にノミネートされた時の出来事でした。その時には1等が該当なかったとの事で、2等にノミネートされた際、審査員や主催の文部省の担当者が堅山先生の経歴を調べたところ、無名でどこの展覧会にも入選した事がない落選続きの画家だったという事でした。落選続きの画家に2等は重過ぎる、3等に降格したらとの動議が出ましてね。その時に、大観は、絵画の賞は絵画につけるべきで、経歴につけるものではないと真っ向から反対したとの事です。経歴につけるような賞であるのなら、初めから賞なんか無い方が良いと、がんとして譲りませんでした。それで堅山先生は2等にノミネートされました。一方、大観は、その年の秋の文展の審査員を外されてしまいました。
 
Q: 日本美術院を再興されたのも、この時期でしょうか。
 
 大正2年(1913)に天心先生が逝去されましたが、亡くなられる前に、大観は洋画家の小杉未醒先生(後の放庵)と絵画自由研究所を作ろうじゃないかと相談していました。放庵が草案まで作って準備していたのですが、天心先生の遺志が美術院を再興してほしいと言う事でしたから、大観は放庵の所に出向いて、遺志を継いで美術院を再興したいので研究所については辞したいと告げたそうです。そうしましたら、放庵は、じゃあ私も手伝おうという事になりました。それで放庵の作成していた草案が日本美術院の基となりました。大観は文展の審査員を外されてしまいましたので、美術院は下村観山、安田靫彦、今村紫紅、小杉未醒、そして大観等が中心となって再興をしました。その時には、大観と観山は、渡辺銀行(東京渡辺銀行)の渡辺伊八郎さんから5千円の借金をしました。この資金で、谷中に美術院の土地を購入し、美術院を建てました。現在の院展の場所です。当時の借金証書は、神奈川県立博物館に残ってます。この借金を、その後、美術院を再興した安田靫彦、今村紫紅や大観の絵を売却したお金で払っていきました。
 第一回の美術院展(院展)に、大観は『游刃有余地』を出品しましたが、院展のための会場が見当たりませんでした。文展は上野で開催していましたが、探していた折に、当時の三越百貨店が会場を提供してくれました。そこで第一回院展を開催しています。したがって、現在でも春の院展は必ず三越で開催されます。
 
Q: 大観先生の普段の生活ぶりはいかがでしたか。
 
 私欲の無い人でした。自分のために何をするという事がありませんでした。美術院の費用は、天心先生亡き後は大観がほとんどを負担しています。後年、東京藝術大学に平櫛田中先生の作で天心像が作られた時には、当時の東京藝術大学には、像を入れる天蓋を設ける資金がありませんでした。大観は、天心先生の像が野晒しになっては申し訳ないと言って、資金を寄付しています。
 昭和10年(1935)に、当時の松田源治文部大臣が、文部省主催の文展の改革について相談に来られました。大観は、お手伝いしましょうと言って文展の審査員を全員辞めさせてしまいました。
 美術学校を卒業したからと言って偉大な芸術家とは限らない、美術学校出身であろうが、否か、自ら学んだ素晴らしい画家も多くいるのだから、そのような人たちを文展の審査員にすべきと進言しています。
 
Q: 平櫛田中先生と交流はありましたか。
 
 美術院再興の際に、平櫛先生にも参画して頂いています。彫刻家の平櫛田中先生は生活が大変で、谷中のお宅の維持についても大観と観山が費用を提供しました。平櫛先生とは肝胆相照らす仲でした。
 
Q: 天心先生の谷中のお住い(現六角堂)は、五浦に行かれた後には建物も無くなってしまったのでしょうか。
 
 無くなったようです。あそこには、大観も資金は出していないかもしれません。区が土地を購入したのかもしれません。現在建っている碑の美術院の字は大観筆です。六角堂の中の天心像はやはり平櫛先生が作られています。ただ新潟県赤倉の天心先生が亡くなられた土地は、大観が購入して天心顕彰会に寄付しています。今も建物と大観が書いた天心終焉の地という碑が建っています。
 
Q: 大観先生の書の評価も高かったのですか。
 
 書道家に書を習うとどうしても字が似通ってしまうと言って、習った事はないでしょう。大観が書道家の中で尊敬していたのは明月上人で、その書も持っていたかもしれないですが、戦災で家も全焼してしまいましたので、分かりません。
 
Q: 大観先生の書は大胆な字が多いですが、天心先生の書は独特ですね。また、五浦の旅館等にも、大観先生の書が残されていますね。
 
 天心先生の書は、一見して天心と分かりますね。大観は大胆な字を書きました。五浦にもありますね。五浦の土地を売却した際に、画材から一切を売却したり、置いてきてしまいました。それに、この家を建てる資金がありませんのでね。大観は、どうしてもこの池之端で死にたかったようです。戦災で池之端の家を無くして疎開していた熱海の別荘も売り払ってしまいましたから。
 


大観に寄贈された天心の書「仰天有始」(明治〜大正初期)
「天を仰げば始有り 物を観るに吾無し」

Q: 住まいをここに定められた理由は何でしょう。
 
 東京美術学校が近い事、そして美術学校を辞した後、日本美術院の八軒屋と呼ばれた寮が谷中にあり、ここにしばらく住んでいましたので、この地が忘れられないのだと思いますね。
 
Q: 朝倉彫塑館等のように、東京美術学校の人たちは偉くなると山を登ると言いますが、一方大観先生は池之端にいらっしゃったのは面白いですね。上野界隈も整備されて、ずいぶん風景が変わりましたが、この辺りの風景も変わったのでしょうか。
 
 この土地はあまり良くないのです。昔は茅町と言って茅が生えていた湿地帯ですから、湿気が多いのです。今でも、建物を建てる時にもかなり水が出ます。 このあたりの風景も、ずいぶん変わりましたねえ。不忍池には明治25年(1892)頃までは東京不忍池競馬場がありましたが、昔から上野の山や池を望む風光明媚な地でした。
 
Q: 大観先生は、この界隈を散歩されたりもしたのでしょうか。
 
 ええ、していたようです。今は無くなりましたが、近在の松坂屋デパートの手前あたりに小料理屋があり、友人の松林桂月先生なんかと一緒に通ったりしていたようです。『東都名所』と題した展覧会で、画家が一番気に入った場所を絵に描くという企画がありまして、大観は不忍池を描いています。この作品は、国立近代美術館にあります。不忍池の絵は、この一枚のみですが、不忍池の蓮の絵はよく描いています。中国の史実に合わせて蓮を描いたり、蓮花等と題して蓮の絵を描いています。その他は、この庭にもあった竹や松でしょうか。竹は最も好きな素材だったようです。最初はこの庭を竹林にしたいと竹を植えたようですが、後には梅になって、今は大島桜になっています。
 
Q: 大観先生ご自身で庭の手入れをされていたのですか。
 
 自然のままが良いと言って、あまり手入れをする事は好まないようでした。けれども、庭木は手を入れないと枯れてしまいますから庭師にお願いしていましたが、自らはしませんでした。この庭も現在では、周辺にビルが建て込んでしまい、また庭木も大きくなり、上に伸びるばかりで、風景が変わりました。
 



横山大記念館館前には、台東区の東京百年を記念した横山大観顕彰碑が建っています。(昭和43年(1968)建立)