横山大観の作品は、多様な人生経験が積み重ねられた成果でした。

横山大観記念館館長の横山隆さん

横山大観記念館館長の横山隆さんにお話しを伺いました。2016年10月28日取材
 
茨城県五浦での生活について
 
Q : 横山館長は、大観先生のお孫さんとの事ですが、まず五浦時代のエピソードをお聞かせ頂けませんか。
 
横山 : 五浦時代(1906-1908)は、もっともつらかった時期だったと本人が申していました。
 
Q : 上野池之端に移られた後も、度々五浦を訪問されていたとの事ですが。ご家族もご一緒に出掛けられていたのでしょうか。
 
 別荘があり、毎夏に9月開催の院展のための作品を手掛けていましたが、出品の一ヶ月前には作品を仕上げて、その後は五浦で静養して友人や知人を招いたりして過ごしていました。家族も一緒に行きましたが、私たちはもっとも長くて一ヶ月程で、たいていは2週間程の滞在でした。私は小学生の頃でしたが、学校が休みの時には連れて行ってもらいました。その際に、私は初めて歌謡曲を知りました。東海林太郎の『赤城の子守唄』でした。
 
Q: 大観先生がレコードをお持ちだったのですか。
 
 音楽が好きでした。江利チエミの『テネシーワルツ』や、笠置シヅ子の『買い物ブギー』等のレコードを持っていましたね。どちらかというと、一生懸命歌う歌手が好きなんですね。全身で歌っているような人が好きでしたね。クラシックのレコードはあまり持っていませんでしたが、ラジオでは聴いていました。レコードは、いまだに蔵に残っています。
 
東京美術学校に入学するまで
 
Q: 大観先生は、日本画を学ばれる前に東京英語学校に入学されたそうですが。
 
 東京府中学校(現日比谷高校)を卒業して、東京大学の予備門を受験しました。建築家になろうとしたんですね。ところが試験制度が変わりましてね、まず当時東大には予備門と英語専修の二つがあったのですが、二つ受けてはいけないとその年に変わったようです。それを知っていたか知らずか分かりませんが、大観はまず英語専修科を受験して合格しましたが、それから予備門の試験も受けていました。当時、その予備門の試験場で喧嘩をした受験生がおり、試験官がこの受験生の顔を覚えていて「お前は英語専修科を受けていただろう。なぜ予備門も受けたんだ、内規に触れる。」と取り消したところ、その学生が「自分だけじゃない。他にもいる。」と言ったものですから、芋づる式に大観も含めて皆取り消されてしまいました。大観は、一度ケチがつくと絶対受けないんですね。それでたまたま東京英語学校があり、ここに入学しました。現在の世田谷にある日本学園ですが、永井荷風や吉田茂も在籍した学校です。
 
Q: 東京英語学校在学時から美術や絵画に関心があり、東京美術学校に進まれたのでしょうか。
 
 全く考えていなかったと思います。たまたま英語学校を卒業する頃に、国立の絵画学校(東京美術学校)が開講されると聞いて、国立なら親も文句言うまいと。動機が不純ですね、絵を学ぼうという事ではなくて、国立なら良いだろうと思ったのでしょう。絵の勉強もしてませんでしたからね。ただ、絵は好きだったんでしょう。洋画家の渡辺文三郎という方に鉛筆画を2,3ヶ月習ったと聞いています。いよいよ東京美術学校を受験するという事になりましたが、最初は鉛筆画で受けようとしていました。ところが鉛筆画科の受験生には、非常に上手い人が揃っていたようで、これじゃ敵わないと思って、結城正明という日本画の先生に急遽毛筆画を習って受けました。これが、幸い合格した訳です。本人の話も聞いていますが、入学したら、大変びっくりしたようです。と言うのも、狩野芳崖門下の四天王と言われる弟子がいたり、大変上手い学生が揃っていて、甲組と乙組に分けられたそうです。上手い学生は甲組で、大観は当然乙組です。それで、入学して2年程経った頃、岡倉天心先生が校長で来られましたが、乙組が甲組に変われるようにして欲しいと要望したそうです。いわゆる転科試験ですね。それで天心先生が要望を受け入れて、試験をした結果、大観は甲組に入る事が出来ました。その後もかなりの入れ替えがあったようですが、大観は、そのまま甲組にずっとおりまして。それから今の大学院にあたる専修科の試験があり、受験者16名の内の1名として合格しています。
 卒業制作では『村童観猿翁(そんどうえんおうをみる)』という作品を制作します。当時教授だった橋本雅邦先生を猿回しの翁に見立てて、周りの子供達を当時の絵画科の学友の幼顔を模して描いて、これが最高賞を受けました。ただし、最高賞といっても80点だったそうです。90点以上というのはなかなか無いようですね。いまだに東京藝術大学(旧東京美術学校)は卒業制作の最高賞の作品は買い上げて保存していますが、大観の作品も藝大に残っています。時々展覧会の際に貸し出ししてもらっています。
 

京都時代から東京美術学校の教員となるまで

 
Q: 京都で一時期学ばれていたとの事ですが。
 
 天心先生や橋本先生が、大観が卒業制作で最高賞を受賞しましたので、助教授に推挙しようと言われたのですが、大観は画家として生活する事が心配だったようなんですね。安田靫彦先生にお話聞きますと、当時絵描きは食べていけない職業の最たるものだったという事で、絵描きになると親から勘当されたとおっしゃっていました。大観も、おそらくこのまま画家となると生活が大変だろうと思ったのでしょう。それで教員試験を受けたところ、天心先生や橋本先生がこの事を聞かれて、もっと真面目にやれと大変怒られて、それで卒業成績が下から2番目に降格されてしまいました。
 それから2年程でしょうか、浪人しましてね。縁があって京都市立工芸学校(現京都市立芸術大学)の助教授になりました。その時に教諭だった竹内栖鳳と共に教鞭を執っています。[右段に続く]

しかしその間、京都国立博物館から古画の模写の依頼を請けて従事するのですが、模写ばかりに専念していたため、竹内栖鳳先生に生徒は任せきりでした。大観も自伝に「栖鳳さんには大変ご迷惑を掛けた」と書いています。その当時模写の作品『観音猿鶴図』や仏画は、今も京都国立博物館にあります。本画と比べても遜色ない程見事に模写していますが、これが後々の大観の画業の糧になっていると思います。
 
 
Q: どのような経緯で、東京に戻られたのでしょうか。
 
 京都で友人だった画家の江中無牛さんから「お前もそろそろ結婚したらどうだ。市立学校の教員だから、給料もあり生活も出来るだろうから」とお茶屋さんの娘さんとお見合いして、お付き合いしていたようなんです。ところが、工芸学校の校長先生が大観を心配して写真を見せて「この娘と見合いしたらどうだ」と勧めたそうです。大観は「申し訳ないが、実は紹介あってお茶屋の娘さんとお付き合いしています。」と伝えましたが、頭から怒られたそうです。そうしたら、大観は自分の嫁さんは自分で決めると、辞表を書いて東京に帰ってきてしまいました。工芸学校の校長先生は、天心先生に「大観はとんでもない奴だ。さっさと辞表を書いて帰ってしまった。」と報告してきたらしいのです。天心先生は大変心配をして、たまたま東京美術学校図按科(図案科)の助教授の席が空いていましたので、大観をその席に就かせたようです。
 
Q:  当時の図按科は日本画や洋画と比して、まだ日が浅い分野ではなかったのでしょうか。
 
 図按科での教授は初めてでしたので、勉強をして本の装丁や挿絵を描いたりしていたようです。これが、後に絵の構図等にもプラスになっていると思います。同期の菱田春草先生たちも挿絵も手掛けていたようです。これは、博文館から出版された水戸烈公を題材とした本です。大観も元は水戸の出身でして、父親、そして祖父は水戸藩士で地図制作に従事していました。
 


大観が表紙絵を手掛けた本。


挿絵も描いている。

 
館内の作品について
 
Q: 鉦鼓洞の作品についてお聞かせ下さい。
 
 この作品は『游刃有余地(ゆうじんよちあり)』(大正2年(1914))と言いまして、荘子の養生主編に登場する庖丁(ほうてい)という料理人を題材としたものです。本当は双幅の作品で、向かって左の絵は牛と庖丁(ほうてい)です。庖丁は日本の包丁の由来ともなっていますが、時の王の文惠君(右幅)が庖丁の見事な料理に感嘆して、見事な技であると称揚したところ、庖丁は技ではない、道であると答えたので、文惠君は、それを聞き、養生(ようせい、真の生き方)の道を会得したと、さらに感嘆したとの逸話を基にしています。大観も絵は心で書くべき、技ではないと、この絵を描きました。大正2年(1913)に天心先生が逝去され、その遺志が日本美術院を再興してほしいという事でしたので、第1回展に双幅として、この作品を出品しました。
 大観は、本下絵を描かない画家でした。日本画では、最初に小下絵を描き、それから原寸大の本下絵を描き、本下絵を写し取って描きます。大観は、本下絵を描くと、それにとらわれて勢いが無くなるため、小下絵で頭には構図が入っていますから、紙なり生地なりに木炭でいきなり当たりをつけます。自分の思ったような表現ができないと描き直します。屏風ですと1寸2寸と描き直していました。『游刃有余地』では2枚描き直しています。作品によっては、十数枚も描き直したりもしてます。そして失敗した気に入らないのは風呂の焚き付けにしてしまったのですが、この作品は燃やし損なって残っていたものです。大観が生きていたら、俺の失敗したのを晒しものにするのかと怒る事と思います。
 

游刃有余地(ゆうじんよちあり)(習作、大正2年(1914))

Q: 先ほどの本の挿絵も大観先生が描かれているのですか。
 
 挿絵もそうです。全編そうです。それから理科の教科書のフラスコとかビーカーの絵等も描いています。
 
Q:  『生々流転』は下絵が残っていますが、珍しいのでしょうか。
 
 必ず下絵は描きますが、いわゆる小下絵です。それから本下絵というのが日本画の手順ですが、本下絵を描かないので、ありません。鉛筆画が多いんですよ。鉛筆画を習った事があるので、鉛筆画を多く描いていますね。ローマに出掛けた際に、筆で描いているものものありますが。[次ページに続く]


横山大観記念館館長の横山隆さん