2016年9月8日掲載
上野の森には、今も数多くの歴史の面影が残っています。

上野動物園内の藤堂家墓所(非公開) 上野動物園内に残る藤堂家の墓所は、動物園の賑わいとは異なった静寂と緑に覆われています。 ルート 3 

上野公園めぐり
上野恩賜公園は、元々、寛永2年(1625)に創建された東叡山寛永寺の寺領であり、今もそこここにその面影を残しています。台東区、寛永寺、上野動物園が共同開催する上野公園めぐりは、毎年秋頃に催される上野の森の歴史と文化を味わえる人気のツアーとなっています。
 

 

東叡山寛永寺の境内には、上野公園めぐりの参加者を始めとして多くの人々が訪れています。 ルート 1 

今回の上野公園めぐりの案内と解説は、東叡山寛永寺子院の寒松院住職の宮部亮侑さんです。まずは、東叡山寛永寺の歴史と根本中堂の由来から始まりました。

 現在の上野恩賜公園は、江戸幕府開闢の後の寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によって創建された東叡山寛永寺の広大な寺領でした。寛永寺は、徳川秀忠、家光の帰依により、江戸城の鬼門(北東)に位置する上野台地に建立されました。将軍家の祈祷寺・菩提寺として篤い庇護を受けた寛永寺は、壮大な寺領と共に小堀遠州等による名園や清水観音堂を始めとして不忍池辯天堂、旧寛永寺五重塔、開山堂(両大師)、大仏殿等の伽藍が立ち並び、各大名の寄進による三十六坊(現存は十九坊)もの子院が造営されました。その子院のひとつ寒松院は、開基の津(現三重県津市)藩主藤堂高虎の法名が寺名となっています。津藩(藤堂家)の下屋敷は、現在の上野動物園から上野東照宮あたりに造られる予定でした。その敷地を、藤堂高虎は家康を祀る上野東照宮の建立にあたって献上し、また寛永4年(1627)に寒松院を東照宮の別当寺として建立しました。上野動物園内には、現在も藤堂家墓所(非公開)が残されています。
  寛永寺の伽藍の多くは、明治元年(1868)の戊辰戦争(上野戦争)の際に多くが焼失してしまいました。その跡地は、明治3年に明治政府の命ににより視察したオランダの軍医ボードワン(ボードウィン)の提案により日本初の公園として蘇りました。ボードワンは上野恩賜公園の生みの親として顕彰され、昭和48年(1973)に上野公園内にボードワン博士像が建立されました。ところが、建立当初の像はボードワンの兄弟の写真を基に作成されたもので、その誤りは永らく分かりませんでした。平成18年(2006)にボードワンの写真を基に、改めて像が建立されました。

ボードワン博士像  ルート 2 

 
初代歌川広重作「東都名所上野東叡山全図」記念碑

初代歌川広重(一立斎広重)「東都名所上野東叡山全図」(天保元年-14年(1830-1843)頃の作品)(国立国会図書館蔵)
現在の上野恩賜公園にも、往時のその伽藍配置の参道から寛永寺本堂を見晴らす展望の面影が残っています。寛永寺本堂の跡地には東京国立博物館が建てられていますが、往時の寺領の広大さが偲ばれます。

上野東照宮の参道からは、上野動物園内に建つ旧寛永寺五重塔が見晴らせます。上野東照宮内に建立されていた五重塔は、明治時代の神仏分離令により寛永寺所管となりましたが、後に東京都に寄贈され、旧寛永寺五重塔として上野動物園内にあります。 ルート 4 

少し歩き疲れた頃に、東叡山清水観音堂の書院で一休み。宮部住職の解説、参加者の質問と華が咲きます。 ルート 5 

戊辰戦争の戦地となった上野公園内には、彰義隊を弔う墓があります。 ルート 6 

上野公園めぐりは、江戸時代、明治時代、そして今日の多くの国内外の観光客や美術館見学客で賑わう上野公園までの歴史やその史跡を知り、また学ぶ事ができます。江戸時代の参道下の上野の町の賑わい、不忍池辯天堂や池之端界隈、そして多くの博物館や美術館が建ち並ぶ公園内にも、往時の風景が彷彿として蘇ります。

上野公園めぐり
上野恩賜公園は、元々、寛永2年(1625)に創建された東叡山寛永寺の寺領であり、今もそこここにその面影を残しています。台東区、寛永寺、上野動物園が共同開催する上野公園めぐりは、毎年秋頃に催される上野の森の歴史と文化を味わえる人気のツアーとなっています。
 

 
 
 
 
歌川広重「上野山した」(国立国会図書館蔵)

 
歌川広重は、江戸百景の一枚として「上野山した」と題して、当時の東叡山寛永寺門前の賑わいを描いています。飯屋伊勢屋の店内の賑わいが見えます。寛永寺への参拝帰りの客でしょうか。伊勢屋の隣には五條天神の鳥居が見えます。

 
 
 
東叡山寛永寺については、「歴史を歩く- 上野の杜を歩く。」をご覧下さい。