日本で初めての日本美術史研究が、ここに始まりました。

アーネスト・フェノロサ、岡倉天心「日本美術史」講義録(新納忠之介旧所蔵資料、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
明治20年(1887)に創設された東京美術学校では、明治22年(1889)から授業が開始されました。アーネスト・フェノロサの「美学及美術史」は、日本で最初の日本美術史の授業でした。この授業は、天心の通訳により明治23年(1890)まで開講され、フェノロサの辞任後、天心が引き継ぐ事になりました。本資料は、東京美術学校で高村光雲の下で鋳金を学んだ西原猪太郎(にしはら いたろう、1871-1912)の筆記によるものです。西原は同校第二回生(1889)で、後に東大寺大仏殿の国宝金銅八角燈篭の修理等に携わりましたが、42歳で夭逝しました。西原と同期だった新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ)が、本講義録を所有していた経緯は不明ですが、整った書式や述者を教授と書き改めている事から、明治24年(1891)10月以降に既存の講義録を書き写したものとも推定されます。

  

アーネスト・フェノロサ、岡倉天心「日本美術史」講義録(新納忠之介旧所蔵資料、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)

 新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ、1869-1954)は、東京美術学校で高村光雲に師事し彫刻を学びました。卒業と同時に同校の助教授に就きましたが、明治31年(1898)に天心の辞職に伴って辞職、日本美術院創設に参加しました。天心没後の日本美術院再興時に、日本美術院第二部(彫刻)は国宝等の修理修復を専門とする美術院として新納を責任者に据え独立しました。美術院は、現在公益財団法人美術院として、京都市下京区の国宝修理所において国宝、重要文化財等の修理を行うと共に、修理技術者を養成しています。新納は、日本美術院第二部創設時には、高村光雲を顧問として招聘しています。新納は、東大寺不空羂索観音立像の修復や百済観音像模造(東京国立博物館蔵)の制作に携わりました。
 茨城県天心記念五浦美術館は、平成26年(2014)に新納家から新納忠之介の旧蔵資料の寄贈を受けました。日本美術院、文化財保護行政、東京美術学校、ボストン美術館等の多岐に亘る資料には、フェノロサ、天心の講義録「日本美術史」や天心等の書簡等の貴重な資料が含まれています。

  
天心が、明治41年(1908)3月25日に、滞在先のボストンから、当時東大寺大仏殿の修理に携わっていた新納へ、同道していた歴史学者黒板勝美(1874-1946)との連名で送った葉書。天心は、東大寺大仏殿修理のために寄付を募っている旨、書き記しています。(茨城県天心記念五浦美術館所蔵)


中国(清国)出張中の天心(明治26年(1893)、開封府近くの旅亭にて、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
早崎稉吉は、明治24年(1891)に上京し、橋本雅邦に入門すると共に天心の書生となりました。明治25年(1892)に東京美術学校に入学し、中国美術の取材に助手として同道したのを機に中国美術研究を志しました。早崎が撮影した中国取材時のこの写真から、天心が漢服に辮髪(弁髪)を結って旅していた事が分かります。
 
 
 
 
日本美術院欧米展新聞記事切抜帖(明治37年(1904)-38年(1905)頃、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
天心と共に渡米した大観、春草はアメリカ各地、そしてヨーロッパを巡って展覧会を開催しています。これらの活動を伝える新聞記事を収集した新聞切抜帖は表紙を含めて52ページで構成されています。天心のアメリカ滞在中に出版した"The Awakening of Japan"や新聞論説"Japan and the 'Yellow Peril'"等の貴重な資料が含まれています。

 
ハーバード大学での学位授与式における天心(明治44年(1911)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)

ハーバード大学から送られた文学修士"Masters of Arts"の学位授与式に出席した際の新聞記事。記事の左右の書き込みは、弟由三郎によるものです。

 

 
新納忠之介、高村関宛ての天心の書簡(明治32年(1899)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
高村へのもてなしへの御礼、新納への富山行の依頼。書簡裏面には「東京谷中 日本美術院 岡倉覚三」と記されています。
 
 
 
新納忠之介宛ての天心の書簡(明治38年(1905)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵) 
茨城県五浦に転居した後の書簡。「常陸国大津町 五浦 岡倉覚三」と記されています。
  
 
アーサー・フェアバンクスからの新納忠之介宛ての依頼状 (左、明治44年(1911)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
天心からのボストン美術館へ推挙した旨の書簡(右、明治44年(1911)、茨城県天心記念五浦美術館蔵)
ボストン美術館館長フェアバンクスは、天心が新納をボストン美術館の中国・日本美術部門の顧問に推挙したため、これを承認し委嘱する旨を記しています。また同日に、天心は新納を推挙したので受けるよう、依頼しています。
 
  
 
九鬼隆一宛ての天心の書簡(大正2年(1913)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵) 
九鬼隆一(1852-1931)は明治期の美術行政に尽力し、文部少輔(しょうゆう、現在の次官の位)や帝国博物館総長等を歴任しました。明治31年(1898)に天心が東京美術学校校長を辞した後も交流は続きました。大正2年(1913)8月1日、天心は九鬼からの次年度の日米交換教授への推挙について受諾する旨を書き送り、8月9日には受諾していますが、その年の9月2日に病没しました。

参考文献
1)茨城県天心記念五浦美術館『所蔵資料目録』(平成19年(2007)10月発行、茨城県天心記念五浦美術館)
2)茨城県天心記念五浦美術館所蔵『新納忠之介旧蔵資料目録I、「日本美術史」講義録・書簡編』(平成28年(2016)3月28日発行、茨城県天心記念五浦美術館、助成:公益財団法人ポーラ美術振興財団)
3)茨城大学『六角堂再建の軌跡』(平成24年(2014)3月15日発行、茨城大学、制作:茨城新聞社)
 
資料提供
茨城県天心記念五浦美術館・茨城大学五浦美術文化研究所・五浦観光ホテル大観荘

岡倉天心"The Ideals of the East"(初版、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
邦題『東洋の理想』は、"Asia is one."という有名な書き出しで始まっています。明治36年(1903)、ジョン・マレー社(ロンドン)から出版されています。英文で著された美術論から文明論に至る天心の初作です。

岡倉天心"The Awakening of Japan"(初版、明治37年(1904)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
邦題『日本の覚醒』は、ボストン美術館への任のため渡米した際に、センチュリー社(ニューヨーク)から出版されています。徳川幕府成立から明治に至る歴史を、政治、思想面から論じています。 
 

岡倉天心"The Book of Tea"(初版、明治37年(1904)、茨城県天心記念五浦美術館所蔵)
邦題『茶の本』は、日本の茶道に託して東洋の美と芸術の精神を紹介しています。
 
「茶の本」の日本語訳は、インターネット電子図書館「青空文庫」で読む事ができます。また、英語で書かれた原著も、電子図書館Project Gutenberg等で読む事ができます。