天心は横浜に生まれ、漢籍(漢文で書かれた中国や日本の書籍)を修め、その後英語塾で英語を修得しました。東京開成所(現東京大学)に入所し、アーネスト・フェノロサに出会い、明治14年(1881)には助手として、日本、そして東洋美術品の収集を務めました。明治19年(1886)には、東京美術学校(現東京藝術大学)設立のため、フェノロサらと共に欧米各地を視察しています。このような経験から、天心は東洋と西洋の彼我の差を知り、日本や東洋の美術の価値について思いを改めて深めたのでしょう。
父、勘右衛門(覚右衛門)は元福井藩士で江戸詰となったのち、福井藩の横浜商館「石川屋」の手代となりました。母このは、長男港一郎(1860-1875)、次男天心、三男弦三郎(夭逝)、四男由三郎、長女蝶子に恵まれましたが、長女の産褥熱のため急逝しました。
明治23年(1890)に設立された東京美術学校は、明治19年(1886)から20年(1887)にかけてフェノロサと共に赴いた欧米の美術教育に関わる調査報告に基づいて、工部大学校(現東京大学工学部)の工部美術部との統合により、東京美術学校が設立された事もあり、校長事務取扱(初代校長代理)に濱尾新が就きましたが、第二代校長となった天心が、事実上の初代校長でもありました。天心は、東京美術学校において東洋美術の復興に尽力しましたが、明治31年(1898)に起こった東京美術学校騒動により、校長を辞任すると共に帝国博物館(現東京国立博物館)美術部長をも辞しました。天心の辞任と共に、東京美術学校の教員は西洋画科を除いて総辞職を決議しましたが、新校長の慰留もあり、結果として橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月等が、天心と共に辞職しました。
明治31年(1898)、天心は辞職した教員等と共に日本美術院を下谷区谷中(現台東区谷中)の天心邸の地に併設しました。天心は、インドやボストン美術館の中国・日本美術部の仕事へとその活動を拡げていきましたが、日本美術院の経営に窮した事もあり、明治39年(1906)に日本美術院第一部(絵画)を「東洋のバルビゾン」と見なした茨城県五浦に移すと共に自らの居も移しました。五浦での生活は厳しく、わずか数年で生活にも窮し、日本美術院は次第にその活動の幅を狭めていきました。菱田春草は、眼病の治療のため一年半で五浦を去り、続いて大観も東京に拠点を移す事になりました。一方、天心は明治40年(1907)に文展審査委員に就任し、明治43年(1910)にはボストン美術館中国・日本美術部長に就任し、明治45年(1912)には文展審査委員に就任しますが、その翌年の大正2年(1913)に、病のため亡くなりました。享年50歳、駒込の染井霊園に埋葬されましたが、五浦にも分骨されました。墓は、天心の辞世の句「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて落ち葉に深く埋めてよ 十二万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」、そして英詩"An Injunction"(戒告)に込められた遺志に沿って造られています。天心は、幕末の動乱期から明治時代を足早に駆け抜けた稀代の国際人であり、日本美術の篤い庇護者の一人でもありました。
天心の没後、大観や観山の尽力により、日本美術院は大正3年(1914)に谷中三崎坂南町(現谷中四丁目)に再興されました。現在、毎年開催される春の院展や秋の再興院展は今も多くの愛好者に親しまれています。
天心の墓所の丘陵には、天心の娘の米山高麗子(こまこ)の墓が密やかにあります。夫米山辰夫(ときお)は東京帝国大学を卒業し鉄道省(旧国鉄)で鉄道局長を歴任し、転任の多い生涯を過ごしました。高麗子は、フランス語も能くする豊かな教養を備えていました。夫妻は、昭和20年(1945)に五浦に移り住みましたが、辰夫は同年に亡くなり、その後、高麗子は昭和30年(1955)までの十年間、天心漁荘に住み、天心の墓所を守りました。享年72歳でした。




































