横山大観の名作の多くが、この地から生み出されました。

横山大観記念館

横山大観記念館
 横山大観(1868‐1958)は、明治、大正、そして昭和を通じて、日本画壇の泰斗として数多くの作品を残し、台東区名誉区民第1号となりました。不忍池(しのばずのいけ)に面した池之端にある記念館は、大観の遺言により私邸を日本美術界に役立てるため、公益財団法人横山大観記念館により公開・運営されています。平成7年(1995)に台東区の史跡として台東区区民文化財台帳に登載されました。)大観自らが指示し造営していること、大観の思想・感性が随所に反映されていること、実際に創作が行われた場でその素材となった物も多くあると考えられること等が評価され、平成29年(2017)2月に「横山大観旧宅及び庭園」として、国の史跡・名勝に指定されました。(台東区池之端1‐4‐24)

  

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■横山大観記念館の庭園は、保全のため立入禁止です。
■館内の作品は、随時展示替えを行っております。 



横山大観

大観は、天心の言葉「一切の藝術は無窮を趁(お)ふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」(一切の芸術は無窮(永遠)を追うことに他ならない、芸術とは感情を主として世界最高の情趣を表すことにある)を座右の銘として多くの名作を残しました。(横山大観記念館「大観のことば」より)
旧邸は昭和20年(1945)の爆撃により全焼し、その後の昭和29年(1954)に再建されました。客間として用いられた「鉦皷洞(しょうこどう)」には広々としたガラス窓が張られ、広大な庭園を借景として一幅の絵画の様を観覧できます。

鉦皷洞とは茨城県五浦にあった大観の家近くの海辺の洞窟で、満潮時には岩穴からちゃぽん、ちゃぽんと音がしたと言われています。大観は五浦での生活を懐かしみ、名付けています。

 横山大観は、明治元年(1868)に水戸の士族酒井捨彦の長男、酒井秀麿として誕生しました。明治維新に伴う廃藩のため水戸藩士の身分を失った父に伴い、明治11年(1878)に上京しました。湯島小学校を経て東京府中学校(現日比谷高校)に進み、明治18年(1885)には建築家を志望して東京大学予備門を受験しましたが、かけもち受験で受験内規に触れて失格したため、東京英語学校に入学し、英語を修めました。その後の明治21年(1888)、東京美術学校(現東京藝術大学)の開校に際して受験し、一期生として入学しました。その頃に横山家との養子縁組により、横山秀麿になりました。そして弱冠29歳で東京美術学校の第二代校長として就いた岡倉天心に出会い、生涯師として仰ぐ事になりました。卒業後は、帝室博物館(現東京国立博物館)嘱託、そして京都市立美術工芸学校(現京都市立芸術大学)教諭を経て東京美術学校図按科(図案科)助教授となり、大観の号を用いるようになりました。
 明治31年(1898)の東京美術学校の内紛による天心の辞職に際し、共に辞して日本美術院創設に参画し、明治36年(1903)にはインドに外遊、翌37年(1904)には天心と共に渡米し、米国各地で展覧会を開催しました。
 明治39年(1906)、天心は茨城県大津村五浦(現北茨城市)を「東洋のバルビゾン」と称して研究所(現茨城大学五浦美術文化研究所)を移しました。そして師弟となる下村観山、菱田春草、木村武山、そして大観を呼び寄せ、新たな日本画の創造を目指しました。五浦での生活は厳しく、また明治40年(1907)には父捨彦が他界し、師であった橋本雅邦も逝去し、五浦の家も全焼したため、一時上野池之端七軒町に仮寓し、明治42年(1909)に池之端茅町(現記念館)の地に居を構えました。その後、大正2年(1913)に、天心も逝去しました。
 大観は制作に専念し、文展、帝展と続けて出品し、大正11年(1922)にはフランスのサロンに出品し、会員に推挙されました。さらに昭和5年(1930)には、ローマで開催された日本美術展に作家代表として赴き、昭和12年(1937)には第1回文化勲章、昭和22年(1947)には文化功労章を受賞、帝国芸術院会員も務めました。終生、日本画壇を牽引し、昭和33年(1958)89年の生涯を全うしました。

霊峰飛鶴(昭和28年(1953)横山大観記念館ポストカードより転載)

 大観の作風は、従来の日本画の線描法に対して、西洋美術、そして東洋美術にも造詣が深い天心の指導により、英国のコンスタブル、クールベやコロー等のフランスのバルビゾン派や印象派の、いわゆる外光派の影響を受けた、線を明らかとしない没線描法に傾倒していきました。当時の評論家からは、これらの表現は朦朧体(もうろうたい)と評されました。この表現技法は、大観の作品の特徴となり、日本画に革新をもたらしました。若き日の作品から昭和へと至る作品群から、その変遷を読み取る事ができます。


 

第10回院展出品作品「生々流転(習作、大正12年(1923))」
 

取材時は、代表作「生々流転」(東京近代美術館蔵、大正12年(1923))の習作が展示されていました。生々流転は、40m余にも及ぶ水墨画の大作で、万物の変化し続ける様を喩えて、大気から生まれた一滴の水が川を成し、そして海へと注ぎ、やがて龍へ変じて天へと昇る様を描いています。

横山大観記念館
 横山大観(1868‐1958)は、明治、大正、そして昭和を通じて、日本画壇の泰斗として数多くの作品を残し、台東区名誉区民第1号となりました。不忍池(しのばずのいけ)に面した池之端にある記念館は、大観の遺言により私邸を日本美術界に役立てるため、公益財団法人横山大観記念館により公開・運営されています。平成7年(1995)に台東区の史跡として台東区区民文化財台帳に登載されました。)大観自らが指示し造営していること、大観の思想・感性が随所に反映されていること、実際に創作が行われた場でその素材となった物も多くあると考えられること等が評価され、平成29年(2017)2月に「横山大観旧宅及び庭園」として、国の史跡・名勝に指定されました。(台東区池之端1‐4‐24)
 
 


横山大観

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■横山大観記念館の庭園は、保全のため立入禁止です。
■館内の作品は、随時展示替えを行っております。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


大観は、天心の言葉「一切の藝術は無窮を趁(お)ふの姿に他ならず 芸術は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」(一切の芸術は無窮(永遠)を追うことに他ならない、芸術とは感情を主として世界最高の情趣を表すことにある)を座右の銘として多くの名作を残しました。(横山大観記念館「大観のことば」より)