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上野寛永寺を訪ねる

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旧寛永寺五重塔(上野公園) 旧寛永寺五重塔(上野公園)

激動の幕末から維新への歴史の舞台として。

Q:けれども、輪王寺は寺院ですね。

浦井:明治16年になって、輪王寺宮という宮様がいなくなったわけですが、輪王寺という名前を寺として復興したい、という願いを上野と日光が出すんですよ。それが天皇家の許可を経て、日光山と東叡山に輪王寺という門跡寺院が二ヶ寺できる訳ですね。それは正式の許可ですから菊の御紋を使っています。

Q:それは神社の扱いだったのですか。

浦井:そんなことはないです。最初から寺ですね。日光は満願寺というお寺、今の輪王寺さんが神主さんを使って東照宮をお守りする。

Q:彰義隊による上野戦争時に寛永寺がほとんど消失したという事ですが。

浦井:そうですね。今残っているのは清水清水堂とか、五重塔や本坊表門程度です。

Q:当初の配置を見てみますと、今の上野公園の国立博物館前の噴水あたりに寛永寺本堂があったという話ですね。

浦井:あれは彰義隊の戦争が終わった後、付け火で燃やされちゃったんですよね。その後寛永寺が現在の場所に移ってきました。

Q:第二次大戦時ですが、ラングトン・ウォーナーというアメリカの研究者が「ここは攻撃してはだめだ」というリストを作っているということなんですね。その中に寛永寺が入っていると思うんですね。実際に上野は空襲なども受けてるんですか。

浦井:先代から聞いた話なんですが、B-29で爆撃をした空軍中尉か大佐だかが戦後寛永寺に謝りに来たという話があるんです。この下に今JRが通っていますね。あそこの近くに昔、藤倉電線の軍需工場があったんですよ、戦争中。それを狙ったんだ、と言い訳をしていかれたそうです。

Q:当時、上野は鉄道とかの中心であったのですか。

浦井:いえ、新橋-横浜間が最初ですから、明治5年。上野駅はワンクッションおいて明治16年頃なんですよ。上野に来るのはね。それからは東北の玄関になりますけども。最初は確か高崎までだったと思いますね。それがどんどん拡張していって青森までいくと。それと同時に京成電鉄が入ってきますので、京成もJRも最初は浅草だったのですよ。浅草さんは当時栄えていて、交通機関なんかいらない、と断ったみたいですね。上野と浅草のふたつの盛り場をつなげたのは地下鉄だけなんですよね。昭和2年でしたか。

Q:幸田露伴の「五重塔」その題材となっているものは江戸期から。

浦井:あれは天王寺さんの五重塔(台東区谷中、昭和32年焼失)ですけどね。寛永寺の五重塔は下総国(現千葉県)佐倉城主土井利勝が寛永8年に建てて、寛永16年に炎上してしまったのだけども、また建てるんですよ。


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