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上野寛永寺を訪ねる

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寛永寺清水観音堂
寛永寺清水観音堂(重要文化財、上野公園)

上野の山には、清水の舞台もあります。

Q:将軍家、つまりは徳川家は、当初から芝増上寺がありながらこちらに寛永寺という形をとられたのはどのような経緯からなのでしょうか。

浦井:それはですね、徳川家康が天正18年、1590年の夏に江戸に秀吉から関八州をもらって第一歩を記すんですね。これは天正18年の8月1日ないしは2日と記録によって一日くらいずれているんですが、そのときに増上寺さんを江戸における菩提寺に指定するんですよ。というのは徳川さんは松平八代といわれた松平郷に高月院というお寺を造って、それが浄土宗なんですよ。それで、岡崎に出てきて、今大樹寺という大きなお寺がありますが、あれも浄土宗なんです。そのあと家康自体は浄土宗に頼って、浄土宗の考え方でずっときて、それで増上寺を菩提寺にする。同時に江戸における徳川家の祈願・祈祷をあつかうお寺を造りたい、と。それを家康は浅草寺にするんです。当時の記録では浅草寺と書かず、浅草観音堂と書いてあります。ですから、江戸における菩提寺は増上寺、祈祷寺は浅草寺。浅草寺は徳川幕府にとっての主たる祈願寺なんですよ。将軍家と正室は増上寺に入れる、と。そういう形できたものが、天海という人と家康が出会った後に変わってきて、元和8年の暮れ、秀忠の時代に、秀忠と天海が相談して寛永寺という寺を建てる。それはいわば浅草寺に変わる祈願寺なんですよ。浅草寺だったんだけども、秀忠と天海の話し合いによって上野にも祈願寺を造ると。やがてそれが1680年代になって、上野が主たる祈願寺になる。だから、寛永寺は菩提寺として建てられたのではなく、祈願寺の寺として建てられているのですね。

Q:比叡山にならって、東叡山と称することは天台宗なのですか。

浦井:天台宗です。それは、開運録に祈願寺は天台宗で菩提寺は浄土宗で、ということを家康が言って家臣に探させた結果、菩提寺としては増上寺さんがありますよ、祈願寺としては浅草観音堂があると。天台宗と浄土宗ですね。ということでその両寺の住職さんを家康が呼んで、小田原の対陣中ですかね、「あなたがたの所に決める」と言ったという記録があります。

Q:寛永寺が建てられる以前の上野のお山というのは、いかがだったのでしょうか。

浦井:何もない鬱蒼とした森だったのではないでしょうか?その当時確実にあったのは、今の五條天神さんが擂鉢山の上にあったとか、双葉某という人が住んでいたとか。


Q:昔は神社とお寺は混淆するという感じだったのですか。

浦井:そうですね。神仏混淆ですね。小野照崎神社に関しては嶺照院という今隣にあるお寺がありますが、五條さんかお寺とつながっていたという記録は見つからない。五條さんは寛永寺ができるんで邪魔だということになって、上野広小路の所に行って、結局、今のヨドバシカメラの角地に五條天神が移るんですね。その後茅町に行って、関東大震災後に今の場所に移る。

Q:やはり建てられる時には京都のものを移すということなのでしょうか。

浦井:はい。中世末から「見立て」という考え方が流行っていまして、たとえば、近江八景は全部あれは中国の瀟湘(しょうしょう)八景の見立てですよね。江戸でもやがて錦絵がでてくる頃には芝八景だとか東都八景だとか、江戸八景だとかいう八景ものは近江八景を模しているんだと思います。そういう見立てがずっと中世末から江戸のはじめにあって、その時に天海が京都の比叡山延暦寺を見立てで上野に移してくる、ということが当時あったんだと思いますね。

Q:あちこちに京都の清水寺とか見立ててこちらにも、という形ですか。

浦井:あれはもう完全な見立てだと思いますけど、その辺にですね、寛永寺の創建時にすぐにすべての伽藍をそろえて幕府の主たる祈願寺にならなかった背景がある、というのが僕がここ数年来考えているところなんです。というのは天海は比叡山を江戸に移して、これを幕府の官寺としてつくるということに対しては、幕府や秀忠や家光と合意していたと思うんですよ。ただ、そのほかに清水堂とか弁天様とか祇園堂とか大仏様とか、そういうものを幕府に関係なく作るんですよ。それがおそらく幕府の考えとぶつかってしまったんだろうと、僕は考えていますね。
 増上寺は菩提寺としての官寺、寛永寺は祈祷寺としての官寺をつくるんで、そういう勝手なものを持ち込まれては困るという考えが幕府側にはあった。幕府が作った寺に勝手に天海がいろんな建物を建てていってしまうわけですから、その辺が結局天海と幕府側とのずれで、天海は結局公の寺をつくっても結局それは徳川幕府のための寺であって、上野には一般の人はこなくなってしまう、そうではなく、上野はやはり一般の人が訪れる場所にしたい、だから特に遊楽の地にしよう、というのが天海の発想だと思うんですね。上野が急速に江戸名所になるのは天海の発想なんだろう、と今僕は思っています。


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