Q:寛永寺は、歴史の宝庫と言いますか、様々な記念となる事物が残されていますね。寛永寺境内には、尾形乾山の墓所がありますね。
浦井:あれはお墓ではなく、碑です。お墓は善養寺という巣鴨のお寺にあります。昔は今のJRの操車場の先あたりにあったのですが、それを巣鴨に持っていたのです。それで、あの碑もそこにあるんですが、今の東京藝術大学学長であった正木直彦さんがもともと上野にあったんだから、ということで同じ碑を造って寛永寺に残して下さった訳です。
Q:寛永寺そばに寛永寺坂駅があったとのことですが。
浦井:京成の駅です。通用門を出た右側のところにあります。寛永寺坂を上がりきった右側の駅です。これはもう京成がかなり前に閉鎖してしまって、現在は倉庫か何かに使っているのではないでしょうか?
Q:昔はあそこを使用されている方々がいたのですか。
浦井:日暮里からここへ来て、さらに博動駅(博物館動物園駅)に停まって上野ですから、駅がありすぎるというのがありましてね。最近博動駅も閉鎖してしまいました。今は日暮里から上野になっていますけど、その間に2駅あったわけですね。まず、寛永寺坂駅がなくなって、博動駅がこれは戦後ですけど無くなって今の格好になったわけですね。大体、京成自体は最初上野に来る予定ではなかったんですよ。これはあまり知られてませんが、日暮里から浅草の方に行く予定だったんですよね。それをカーブさせて、今の京成のスカイライナーの出るあそこにもってくるために、かなり無理なカーブをして持ってきているんですよ。
Q:台東区は拝見すると、二通りありまして、ひとつめは「江戸」という時代の浅草、上野というところと、もうひとつは「昭和」「大正」「明治」という時代の上野、浅草界隈という話がありまして。浅草の方にお話をすると明治のモダンとかのその時代が浅草には一番馴染む、という話をされているんですね。ただ浅草寺がありますんで、江戸の風情があるということだったんですが。上野は一体どのようにその時代や雰囲気を評価したらよいのでしょうか。
浦井:そうですね。実は私この前浅草の方に頼まれて上野と浅草の話をしてくれ、というのでお話したのですが、ご質問と多少ずれるかもしれませんが、基本的に上野と浅草というのはですね、江戸時代から平成の現代まである意味ではずーっと続いて名所であり、盛り場でした。